お知らせ 本願寺 眞無量院からのお知らせです。

平成27年度 吉崎御坊 報恩講厳修(更新日 2015/11/11)

 去る11月7日(土)、本願寺眞無量院の支院である吉崎御坊(福井県あわら市)において、本年度の報恩講が本山御連枝殿である大谷飛鳥本願寺眞無量院御住職殿御直修のもと、本山御正忌に先だち、お取越しにて厳修されました。

 この報恩講を迎えるに際して、法要の前日から、北陸地方に住む吉崎御坊門信徒らによって御堂内外の清掃と玄関を荘る幕張が行われました。

 僧侶は日頃各尊前に荘厳されている仏具(三具足)をお磨きし、輝きを戻した仏具とともに、報恩講用の設えである五具足に仏具を変え、本堂の荘厳を整えました。

 日ごろ聞法道場として使用している本堂を清掃し荘厳をすることで、僧俗共に仏恩報謝の汗を流し、仏祖並びに親鸞聖人の御徳に感謝し、報恩講という慶事に備えました。

 そして当日午後2時より、吉崎御坊での報恩講がはじまりました。

 本年も、京都の本山より2名の堂衆が参勤し、法要には、昨日仏恩報謝に汗を流した吉崎御坊の門信徒以外にも、中部や関西地区からも大勢の方がお参りにお越しになりました。

 大谷飛鳥御住職殿御調声のもとお勤めが始まり、お越しになられた方とともに親鸞聖人が制作された正信偈(正信念仏偈)を同朊唱和で勤め、僧俗一体となり仏徳讃嘆の御勤めが厳かに執り行われました。

 法要後、ひきつづき大谷飛鳥御住職殿より吉崎御坊報恩講厳修にあたっての御直教を賜りました。

 御直教では、「人の世には、利益というものがどうしてもついて回ります。そして悲しいことに、ほとんどの場合は、自分の利益は、誰かの利益と相反しております。そんなだから、他人の幸せを自分の幸せと喜べない。それどころか、人の幸せが疎ましく思える時さえある程です。反対から眺めてみれば、自分が幸せと感じていることの陰に、誰かが苦痛に泣いておられるのです。結局私達人間というものは、自分にとって何が喜ばしいことであるか。そのような基準でしか物事を見ることができない、という自己中心的な存在でありましょう。」と、私たちが自身と他を分け、自己中心的にしか物事をとらえられないという現実をお説きになられました。

 引き続き「しかし、阿弥陀如来は、ご自身と他とを、元より分けてご覧にはなりません。ご和讃に

自利々他圓満して
帰命方便巧荘厳
こころもことばもたへたれば
不可思議尊を帰命せよ

 とお示し下さいますように、阿弥陀如来には、御自らの利益である自利と、他、つまり私たちの利益となる利他が、完全に一致しているのであります。阿弥陀如来の自利とは、如來ご自身が證りを開かれて佛となられることを言い、利他は、私たちを極楽浄土へお連れ下さることで、阿弥陀如来においては、自利と利他を円満に完成して下さっているのです。如来の利である證りは、即ち我々の利であり、救いであるのです。実は、我々の自己中心性が浮き彫りになるのは、自らの利と他の利が相反しない如来によってであります。」と、阿弥陀如来の自利々他円満のお働きによって、それとは反対の自利々他矛盾する、我が身の自己中心性にはっきりと気づかせて頂けることであるとお示し下さいました。

 本来浄土真宗寺院とは、そうした阿弥陀如来のお働きと、それに照らされた私たちの反省に満たされた空間であり、それは、自分達自身を超えた存在を意識し、大きく包んで頂いている安心感を共有する空間でもある念仏道場であります。ここ吉崎御坊も含め本願寺眞無量院は、誰しもが聞法することができ、心の拠り所となる開かれた寺院であります。

 こうして、本年度も吉崎御坊報恩講を通じ僧俗共に御開山聖人御出世の御恩、さらに御相承の善知識の御勧化の御恩に出遇わせて頂ける法会であったと皆々喜び、吉崎御坊堂内には報恩感謝の念仏が響き渡りました。