お知らせ 本願寺 眞無量院からのお知らせです。

本願寺准連枝 機法院殿(大谷真実様)「連載 自灯明法灯明(第4回)(更新日 2017/09/23)

 10月に入り、朝夕は涼しくなりました。私は鴨川の近くに住んでいるのですが、子供たちをつれて散歩するのにちょうどいい時期です。鴨川は子供のころからよく遊んでいた場所なので、行くととても落ち着きます。

 大雨の後は川の水かさが増し、濁った泥水になりますが、数日もすれば普段通りの透き通ったきれいな水が流れます。澄んだ川を眺めているとなんだか心が洗われる気がします。

それでは前回に続き

 能発一念喜愛心(のうほッいちねんきあいしん)
 不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)
 凡聖逆謗斉回入(ぼんしょうぎゃくほうさいえにゅう)
 如衆水入海一味(にゅしゅしにゅうかいいちみ)

という正信偈の中にある四句を紹介させていただきます。

 これは、『南無阿弥陀仏を信じてよろこぶなら、煩悩をもったままお浄土に往生して、仏のさとりをひらくことができる。凡夫も聖者も極悪の人もみな、他力の念仏の世界に入れば、川の水が海に入り一つになるように、平等に救われる』という意味です。

京都二条大橋からの鴨川

 私は、正信偈の中でもこの四句がとても印象に残っています。煩悩を抱えたままでも本願を信じれば救われる、これだけで心が軽くなり気持ちが楽になります。涅槃とは、仏さまのさとりの世界で、煩悩が完全に消滅しきった世界です。私たちは自分の力で煩悩をなくすことは出来ません。そんな私たちでも阿弥陀如来の完全なるお救いの力(他力回向)によって、煩悩を抱えたままお浄土に往生することができる。阿弥陀如来は私たち凡夫を救ってくださるということに改めて気づかされます。本当に私たちみな救われるのか?よく子供のころに悪いことをしたら地獄に行かされるぞと言われていましたが、例えば人を殺したひとも救われるのでしょうか?

 【凡聖逆謗】という言葉がありますが、凡は凡夫(煩悩を抱えた人)、聖は聖者(勝れた人)、逆は五逆、謗は仏法の悪口をいうことを意味します。五逆とは、五つの重い罪を犯すことをいい、父や母を殺すというようなことが含まれます。そのような人でも、信心に目覚めれば救われると親鸞聖人は言われたのです。

 澄んだ川の水も濁った川の水も海に流れると同じ海水になるように、心の澄んだ人も、濁った人も仏さまの世界に受け止めていただきひとつになるとたとえられました。阿弥陀如来に救われるということは、聖者も凡夫も海のように広い仏さまの世界に往生することができるということです。私たちは、ついつい自分は重い罪も犯していない普通に生きている善人だ、きれいな水だと判断しがちですが、全く煩悩がない、心が汚れていない人などいないのです。

 濁った水は私たち自身のことだときちんと自覚し、そんな私たちでも海のような広い心をもって受け入れてくださる阿弥陀如来にすべてをお任せして、日々正信偈を唱えていきたいです。