「信心は徳の余り」という諺があります。信心も、生活にゆとりがあってはじめて出来る。衣食住に追われていては、信心しようと思っても出来ないという意味だそうですが、仏教に興味を抱く前の私は、まさに日々の生活に追われ、一日のほとんどを過ごす職場では、業務をこなすことで一杯であり、心のゆとりなどありませんでした。
仕事を離れ、思い巡らす時間を持ち、今まで何をしてきたのか、自分にはなにが残ったのかを考えた時、自分自身に素直に向き合えていなかったことに気が付きました。実は、周りのことばかりに気を取られ、自分自身が見えていなかったのです。
仏道に入り、日々の自分の行い、振舞いを通して自身を知り、本当に幸せに暮らし、悔いのない人生を送るというのはどういうことなのかを考えるようになりました。そして、宗教が、自分が今生きる意味の答えを導いてくれる大変意義深いものとなったのです。
合掌
幼いころの話になりますが、我が家にお坊さんがお参りに来たり、家族そろってよくお寺にお参りしたりしたものです。その時には正信偈、仏説阿弥陀経等を、両親に倣って唱和した記憶があります。
歳月が流れ仕事を退き、ご縁あって宗学堂に入堂し、仏教学、真宗学、声明作法を学び、阿弥陀如来、釈尊、法然上人、親鸞聖人について深く知ることが出来ました。まだまだ研鑽の途上ではありますが、阿弥陀如来の本願力の凄さが心を強く打ってきます。今まで何気なく手を合わせていたのが、少し知識を得ると、意味が分かってくる様な気がし、仏道に対する気持ちが更に深まってまいります。今は、高僧和讃のうち「信心すなはち一心なり 一心すなはち金剛心 金剛心は菩提心 この心すなはち他力なり」の句を心に深く刻んでおります。
最近は世間で核家族化が進み、二世帯・三世帯が同居することは殆んどなくなった様に思います。我が家も同様に、子や孫とは別居しておりますが、宗学堂で学んだこの何物にも変えがたい、仏様から頂戴した有難い仏法を、子や孫に、機会あるごとに伝えていきたいと思います。私自身、幼いころから仏法に出逢う機会に恵まれた環境に感謝し、そして宗学堂のおかげでまた仏法に巡り逢えたという無上の喜びを感じつつ、今後もより一層研鑽し、本当の信心獲得に努めて行きたい所存であります。
宗学堂に入堂し早二年。
講師の先生方や、先達の先輩方より、一から仏教や浄土真宗の御教え、声明、本山での儀式作法等を教えて頂き、充実した日々を過ごすことが出来るようになりました。
「何が変わったの」と聞かれると、見た目はただ二歳年を取っただけですが、人からは見えない部分で、仏道を歩み始めたことによる、心の拠り所が出来たことが、一番の大きな変化です。
心の拠り所が出来たことにより、忙しい毎日を過ごす中、気持ちを落ち着かせる事の出来る有意義な時間を持てる様になりました。
仏道の人生に終わりは無く、この先苦難や壁に当たるかも知れませんが、仏道の人生を歩み始めた喜びを忘れる事無く、まだ二年しか経っていないと肝に銘じ、日々精進・研鑽していきたいと思います。