生徒の声

本願寺眞無量院宗学堂 第1期生 釋永堅(永田鎮也)

 現代教育は、知を獲得(かくとく)したことで頷く「私」を育成する。浄土真宗では、弥陀のはたらきが「衆生」に信を獲得(ぎゃくとく)せしめ、知らせしむことにより「衆生」を救済する。そこでは知信から信知へ、育成から救済へといった、方法も目的も異なった「学び」が求められる。

 現代教育に慣れた我々にとって、知信から信知へ舵を切ることは大変困難で、学ぶ身の処し方さえ戸惑う。五里霧中の中、大谷暢順本願寺御法主台下の「信心学」という言葉に出遇った。

 本願寺眞無量院宗学堂での学びは、母の生死や事業の浮沈など、人生の縮図とともにあった。私自身が賜った信知の内容は言語を突き抜け、人生の縮図とともに鮮明に残影している。ここでの学びは、現代教育とは何かが違っていた。

 今ではこの違いの秘密が、「信心学」に込められた「勧学布教 学事の振興」の歴史的精神にあると確信している。日々大樹を育するがごとく、宗学堂での信知のはたらきに終わりはない。後学の継続と発展を願う。

合掌

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本願寺眞無量院宗学堂 京都教場 第2期生 釋安哲(児玉哲也)

 私は、本願寺眞無量院宗学堂京都教場の2期生です。広島県在住ですが、地元は安芸門徒の多い地として知られています。

 縁あって宗学堂で学ぶことになり、早5年の歳月が経ちました。振り返ってみると、きっかけは父の認知症でしたが、宗学堂で学ぶうちに、そのことはさして重要なことではなかったと思う様になりました。

 月に2、3度の京都通いは体力的にも金銭的にも大変なことでしたが、得たものもそれ以上に大きなものでした。宗学堂で講義を受け学ぶこともですが、得度後、僧侶となってからの本山本願寺(東本願寺)での実践を通して学び得たものはより大きなものでした。歴史と伝統に裏付けられた儀式作法や日常的なお勤めの中にある所作の意味など大変貴重な体験でした。

 遠方なので他での通信教育も考えましたが、今では自分の考えは間違っていなかった、いや阿弥陀如来のお導きにより宗学堂に学んだと思っています。もちろん宗学堂の先生方、先輩・後輩諸氏の助力や支えが大きな力となった事は言うまでもありません。

 今後益々信心が深まりそれを多くの人に伝えられるように精進したいと思います。

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本願寺眞無量院宗学堂 京都教場 第5期生 釋願海(沢田和也)

 時が経つのは早いもので、仏教を学ぼうと思い、本願寺眞無量院宗学堂に通いだして2年と半年の歳月が流れました。振り返れば宗学堂の学びの中で、色々な自分と向き合い、今までにない感情に出会えた気がします。

 儀式科目の講義で教えて頂いた声明(お経の勤め方)を日々家で練習するのですが、毎日練習していると、不思議と様々な自分に気づかされます。「もう読めるから適当に読もう」とか「もう出来るから早く済まそう」といった感情になる訳です。しかし宗学堂で学んだ諸行無常が頭によぎり今一度自分と向き合い研鑽していこうと思うようになりました。おそらく宗学堂に通わなければ、こういったことについて何も思うことすら無かったでしょう。

 人それぞれ色々な考えがあると思いますが、生きる上での正解や不正解はないと思っています。しかし、宗学堂という仏教の学び舎の中で様々な考えの方と話し、また自分と向き合える場としてすばらしい機縁を得て、このような縁を頂いたことに感謝しております。

 

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