生徒の声

本願寺眞無量院宗学堂 京都教場 第3期生 釋直行(尾崎直利)

 現代の日本で、ごく一般的な普通の生活をしている人が仏教に触れる機会といえば、親族、知人等の葬儀や法要、そのほか、古寺名刹を拝観するときくらいでしょうか。

 その上、こうした機会も、真に仏教に救いを求めてという目的を持ったものではなく、前者の場合は、儀式(セレモニー)としての意味合いが強く、後者の場合は歴史的考察を含め、観光の一環といっても過言ではないと思います。

 さて、私は昭和二十四年生まれ、正に団塊の世代と呼ばれる中でも、一番人口の多い世代に生まれ、生存競争の激しい中、学校を卒業し、サラリーマンとして働き、数年前に六十歳の定年を迎えました。

 働くものにとって、定年は自ら迎えることになって、初めて実感することになるのですが、例えるならば、今まで何十年も歩んで来た道の先が、突然無くなるというようなものでしょうか?

 ある意味で、人生の大きな節目と言えるでしょう。

 私は、この節目に、今まで自分の中で潜在的に抱きつつも、決して結論を得ることができない疑問、それゆえに、向き合うことを避けてきた疑問に、答えを探す手段が無いか、考えるようになりました。

 正に、何のために自分はこの世に生を受けたか?何をすべきなのか?

 さらには、人は生まれてきたときに、同時に死ぬ運命を背負うわけですが、死んだら自分はどうなるのか?

 そんなとき、これらの疑問を解決すべく一筋の光を投げかけて頂いたのが、本願寺眞無量院の宗学堂でした。

 冒頭に述べた様な仏教に触れる機会とは、根底から違う、お釈迦様の説かれた仏教の真髄、阿弥陀様の浄土の御教えに触れさせて頂くことができました。

 東本願寺第二十一世法主 厳如上人の御遺志「勧学布教 学事の振興」の実践の場としての宗学堂にて学ばせて頂き、得度させて頂いた深い仏縁に感謝するとともに、更に安心(あんじん)の人生を歩んでいきたいと思います。

 人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く。此身今生において度せずんば、更に何れかの生に向ってか此身を度せん。

 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

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本願寺眞無量院宗学堂 京都教場 第4期生 釋尼正洋(伊藤洋子)

 この春で、宗学堂に入堂して三年が過ぎました。私は寺院の仏像の前に座りお庭を眺めていると何となく心が落ち着くので、退職したらお寺巡りもいいなあと思っていました。宗学堂で学ばせて頂く以前は、毎月家にお参りに来て下さる手次寺の御住職にもご挨拶をするだけで、お経もただ勤行集を手に取っているだけでした。

 宗学堂入堂のきっかけは、仏教に興味があったことですが、まず駅から近いこと、そして「儀式」の科目があり、現職の僧侶から「声明」を基礎から教えてもらえることが、私にとって一番の魅力でした。

 宗学堂では、「仏教本来である悩める人々の心を救いたい」との本願寺眞無量院御住職殿の熱い想いを共有された、各本山任命の講師陣から丁寧に指導を受けました。

 「仏教とは、こんなにも日本人の奥深くに密接に結びついている」、また「親鸞聖人のあまりの偉大さ」など、宗学堂で得られた仏縁を大変嬉しく思っています。得度を受けた現在、仏弟子として、日々学びながら僧侶の道をより一層歩んでいっております。

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本願寺眞無量院宗学堂 東京学院 第1期生 釋慶恩(遠藤恵太)

 昨年、10月に仏弟子としての人生を歩み始めました。実家がお寺だったというわけではなく、むしろ仏教を信仰することとは、ほど遠い生活をしていました。

 前職は納棺師でした。当たり前ですが、毎日人は亡くなります。大切な人を亡くし、お別れをすることを受け入れられない人は多いです。私は、普通の人より身を以てそれを知りました。そして、本願寺眞無量院の宗学堂に通いはじめました。

 浄土真宗の教義に触れることで、他力本願の御教えを知ったこと自体、阿弥陀様のお計らいが自分にも届いているのだと感じました。

 私は、今まで仏教を信仰する事とはほど遠い生活をしていましたが、大事な人を喪って悲しんだままの人はもちろん、できるだけ多くの人に浄土真宗の御教えを伝えるべく、念仏の日々に勤しみます。

 

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