浄土真宗の御教え 本願寺 眞無量院の浄土真宗の御教えについて紹介いたします。

親鸞聖人と浄土真宗開宗

法然上人の説いた本願念仏の教えは、誰にでも容易にできる教えでありましたので、身分の上下や老若男女を問わず弘まっていきました。しかし、それを快く思っていない人たちの陰謀によって法然上人と親鸞聖人は流罪に処されます(承元の法難)。法然上人は讃岐国(現香川県)、親鸞聖人は越後国(現新潟県)に流され離ればなれとさせられてしまいました。

親鸞聖人は深い悲しみに沈まれましたが、しかし、親鸞聖人は流罪をたんに嘆き悲しまれただけはありませんでした。むしろ、流罪にあうということは、法然上人の説いた教えはまことであったことの証明であり、いまだ見ぬ土地の人びとに本願念仏の教えを弘め、人々を救う好機であると思われたのです。

越後に流され5年(1211)、親鸞聖人は法然上人とともに罪をゆるされました。これで、晴れて法然上人と再会できると喜んだのもつかの間、一路法然上人がおられる京都を目指されていた親鸞聖人のもとに、法然上人が亡くなられたという訃報が届くのでした。

親鸞聖人は、法然上人と再会できないならば、京都へは戻らず関東の地で布教しようとお考えになられます。それは、法然上人亡きいま、その恩にむくいる道はすべての人を救う本願念仏の教えを人々に伝える以外にないと気づかれたからであります。悲しみから新しく燃え上がった決意はいっそう強くなり、稲田を中心に布教を始められるのでした。

親鸞聖人が説かれる本願念仏の教えは、武士や商人はもとより農民たちのあいだにも広がり、瞬く間に関東一円に広まっていきます。この頃親鸞聖人は布教伝道をする一方で、のちの浄土真宗の根本聖典になる『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』を書きはじめられます。この年(1224)が浄土真宗立教開宗であります。

その後20年もの間、関東に腰をすえて、じっくりと布教に取り組まれた親鸞聖人は、生まれ育った京都へと戻られます。そして、『教行信証』に何度も推敲を重ねるとともに、越後や関東にてともに汗を流した市井の人々でも、浄土真宗の御教えに出会い、信心獲得に至るよう、当時流行していた音楽「今様」形式でもって他力の信心を説く、500首以上もの和讃を御製作になられるなど多くの著述活動に専念をされ、享年90歳(1262)にて、念仏申しつつ激動の生涯を静かに閉じられ、浄土へと御遷化されるのでありました。