浄土真宗の御教え 本願寺 眞無量院の浄土真宗の御教えについて紹介いたします。

教如上人と東西分立

織田信長が本能寺の変で討たれた後、豊臣秀吉が天下統一を果たしました。豊臣秀吉は、荒地に次々と寺内町をつくり上げていった本願寺の都市開発の力量に着目し、顕如上人および本願寺に度重なる退去命令を発することで、各地に都市をつくり上げようと考えます。顕如上人は、その命に応じて、鷺森から和泉国貝塚(現大阪)、大坂城の御膝元である摂津国天満(現大阪)、そして京都六条堀川の地(現在の西本願寺)へと、本願寺の寺基を度々移転させます。

しかし、京都へと移転した翌年、度重なる移転の無理がたたったのか、御正忌報恩講(浄土真宗最大の年中行事)の最中に顕如上人が遷化なさります。本願寺中が悲しみに包まれるなかで、ご葬儀の導師をされたのは長子で新門の教如上人でした。顕如上人の訃報とともに、教如上人が立派にご葬儀の導師を勤められたとの報を聞いた豊臣秀吉は、教如上人にいたく感じ入り、本願寺住職を継職するように勧めます。しかし、教如上人が本願寺住職を継職後、宗門内に末子の准如が本願寺住職を継職すべきとの意見があり、悩んだ秀吉は考えをあらため、教如上人が10年間在職した後、末子の准如に本願寺住職を譲るよう裁決致しました。教如上人はその命に従いましたが、教如上人側の坊官が抗議をしたため、秀吉の怒りにふれ、教如上人は本願寺内に「裏方」として蟄居させられることになります。

しかしながら教如上人は、当時わずか11歳の准如に本願寺の法統を担わせることは出来ない、自らが法統を継承しなければという思いがありました。教如上人は、蟄居の身ではありながら、御本尊や御聖教の下附をはじめ、精力的な布教活動を行われたのです。

教如上人は、関東において徐々に力を蓄えていた徳川家康と、何度も面会を重ねました。かつて三河の一向一揆にて浄土真宗を排斥した徳川家康も、教如上人の持たれた仏法興隆、本願寺護持の思いと、教如上人自身の人柄に惹かれ、親密な関係を築いていったのです。

秀吉没後、徳川家康は関ヶ原の合戦に勝利して、天下統一を成し遂げました。その2年後、家康は教如上人に、烏丸六条の地(現在の真宗本廟)の寄進を受け、ここに本願寺の寺基を移されます。ここに、覚如上人以来、親鸞聖人の法統を護持してきた本願寺は、教如上人が継職された東本願寺と、准如上人が継職された西本願寺とに分立することとなります。

なお、蓮如上人以来の本願寺の声明作法を伝えてきた本願寺御堂衆の多くは、教如上人を慕って東本願寺へと移られました。かつて越後に流罪となった親鸞聖人の御遺徳を偲ぶ勇壮な「坂東曲」に代表される、蓮如上人以来の声明作法は、東本願寺の法統とともに、確かに現在まで伝えられているのです。