浄土真宗の御教え 本願寺 眞無量院の浄土真宗の御教えについて紹介いたします。

顕如上人と石山合戦

戦国乱世へと移り変わる時代、実如上人の後に本願寺住職を継職されたのが証如上人です。日本各地で戦乱の嵐が吹き荒れる中、近江の六角氏と法華宗徒によって、かつて「仏国土の顕現」とまで称された山科本願寺は焼亡してしまうこととなります。城郭として堅固な設備を備えていた山科本願寺ですが、各地の一揆を治めるために総力をあげていたため、炎上時にほとんど人がいなかったからであります。

証如上人は、蓮如上人によって建立されていた大坂御坊へ本願寺の寺基を移され、親鸞聖人の御真影を奉じ、そこを本願寺(石山本願寺)とされました。その後、阿弥陀堂をはじめ諸堂を構え、宗門本山として体制を整えられました。また、石山本願寺ではとくに警護に配慮し、堀や塀が厳重にめぐらされ、近畿在住の門徒が警備のために順番で上山し番衆を努めました。堀内の寺地には寺内町が形成され、後に寺内町は十町余に分かれて数千軒から構成されるほどに発展しました。

さらに証如上人は、朝廷より権僧正に任じられるという異例の昇任、本願寺は門跡寺院の勅許を受けるなど、本願寺の社会的地位の向上に努められ、39歳の若さで遷化されました。その後に本願寺住職を継職されたのが顕如上人です。

時代は戦国時代さなか。日本各地の戦国武将が覇権を争う緊迫した世の中で、懸命に布教活動を続ける顕如上人でしたが、やがて他の戦国大名との覇権争いに巻き込まれていくことになります。織田信長は、天下統一を図るために、本願寺をはじめ、諸仏教教団と対立いたします。

織田信長は本願寺に対し、築城のための石山本願寺移転、五千貫もの課税など、度重なる無理難題を懸け続け、最終的には石山本願寺の破却を通告。この仏教への迫害に対して顕如上人は織田信長と戦うことを決意されます。以後10年間にわたる石山合戦の火蓋が切って落とされ、2万人以上の多くの僧侶・門徒が命を落とすこととなりました。

戦況は次第に本願寺に不利な状況となり、朝廷の仲介により和議が結ばれ、顕如上人は、やむなく石山本願寺からの退去を決意されます。しかし、顕如上人の長子である教如上人は、親鸞聖人一流の法統護持のため、蓮如上人以来の石山本願寺を死守すべきという立場を貫かれ徹底抗戦を主張されます。

和議の翌年、顕如上人は親鸞聖人の御真影とともに石山を退去され、紀州鷺森(現和歌山)へと向かわれますが、教如上人は、石山本願寺に残って徹底抗戦の構えを見せます。しかしながら、これ以上長引けば、更に多くの僧侶・門徒の犠牲者がでると考えられ、教如上人も、やむなく鷺森へと退去されたのでした。