浄土真宗の御教え 本願寺 眞無量院の浄土真宗の御教えについて紹介いたします。

厳如上人と幕末の動乱

江戸時代は、江戸幕府による寺院統制の枠組みのなかで、東本願寺宗門が安定した成長を遂げた時代でした。徳川家光より寄進された地に枳穀邸を造成されるなど、東本願寺と徳川家との関係は良好であり、幕末には本願寺境内に家康を祀る東照宮があったことも知られております。

社会では、集落に道場が建立され、篤信な門徒が道場主として門徒教化を担うなど、教化の裾野が大きく広がった時代でもありました。特に、本願念仏の御教えを、華麗な節回しと多くの因縁話で語る節談説教は、多くの民衆を魅了し、教えに出会う御縁となり、また落語に代表される古典話芸の源流にもなっていきます。

しかし、ペリー来航にはじまる幕末の動乱は、近代日本の歩みの始まりであると同時に、東本願寺宗門の苦難の歴史の始まりでした。長きにわたって徳川家と良好な関係を保っていた東本願寺は、倒幕を目指す志士達の標的となります。特に禁門の変(1864)では、東本願寺に火が放たれ、壮麗を極めた堂宇は完全に灰塵に帰してしまいます。

明治新政府は、神道を国教とし、祭政一致体制を築くための政策を推進します。特に、新たに設立された大教院の下で、国家的な廃仏毀釈運動がおこなわれます。この運動によって、多くの寺院が、打ち毀し等による壊滅的な打撃をうけました。

東本願寺第二十一世法主厳如上人は、両堂が灰塵に帰し、様々な困難が東本願寺宗門を取り巻くなかで、東本願寺の復興へ向けて尽力されました。特に、廃仏毀釈運動に対して、日本仏教の危機との認識のもと、各宗派との連携のもとに大教院体制を差し止めることに成功致します。

しかしながら、これにより、明治政府は「かつての佐幕派の寺院」として、東本願寺を一層敵視するようになり、数多くの無理難題を突き付けるようになります。特に大きなものは、当時全く未開の地であった北海道開拓の命でした。厳如上人は、新門であった現如上人を北海道へ派遣されました。逆縁を勝縁とされた現如上人は、北海道開拓事業を見事に成し遂げられると同時に、北の大地で多くの門徒をお育てになられました。

数多くの難題を次々に解決されるなか、厳如上人は焼失した東本願寺の両堂再建に着手されます。各地の門徒の尽力もあって、両堂再建事業は順調に進みました。しかし、厳如上人の胸中にはいつしか、御堂の再建にばかり目が走り、東本願寺の原点ともいえる「勧学布教・学事の振興」という大切な役目を、東本願寺宗門は忘れてしまっているのではないか、という思いがうまれたのです。

いよいよ再建を目前にして、宗門全体が浮足立つなか、厳如上人は「勧学布教・学事の振興をたのむ」との御遺言とともに遷化なされました。

そんな悲しみの中、厳如上人の御遺志をしっかりと受けとめ、実現のために尽力されたのは、東本願寺23世法主彰如上人です。当代きっての文化人でもあった彰如上人は、「勧学布教・学事の振興」のためには、まず本山たる東本願寺の直参門徒の存在が不可欠であると考え、不自由な足をおして全国を行脚され、門徒の教化に勤しむとともに、数多くの俳句や書画を通して、日本国民のこころをお育てになりました。しかしながら、そんな彰如上人の思いと反して、東本願寺宗門は、自ら本山たる東本願寺を法難へと誘っていくのでありました。